過干渉型毒親家庭で育つということ

スパルタ教育型・過干渉型毒親の支配下から逃れ、自由を手に入れるまで。

毒親育ちあるある:自己肯定感不足

自己肯定感不足

 

毒親育ちに典型的な「自己肯定感の無さ」、私にも当てはまる。

自己肯定感というのは、能力的な自信、外見の自信、とは異なる、もっと根源的なものだと思う。

言葉には表しにくいけれど、私は以下のような心境の時、「あ、これって私に自己肯定感が無いからなのかなぁ」と思う。

  1. 付き合いの浅い社内の知人に話しかけるのに躊躇する。
  2. 一度だけ短い会話をした事がある人とすれ違った際に挨拶しようと思うけれど、なぜか気後れしてしまう。私に気づかなければいいのにとすら思ってしまう。 
  3. 友達と遊ぶとき、一対一を好む(二人での外出)。3人以上になると、私以外のメンバーで盛り上がってしまうんじゃないか、そして私は寂しい思いをしてしまうんじゃないかと思う。
  4. 日常で起こったちょっとしたことをすごく面白く話す人におどろく。私が、「きっと私がこんなこと話してもつまらないと思われそうかな」というような些細なことを。
  5. 大人数での会話の途中で、何かちょっと思いついた言いたいことがあっても、重要じゃないかもしれないし、まぁいっか…と思ってしまい発言の機会を逃してしまう。が、他の人が私の思っていた事と同じ内容をさも得意そうに話すと、よくそんな自信たっぷりに発言できるな…とびっくりする。

「わけもなく」「なんとなく」「なぜか」私自身や私の考えに興味・関心を持ってもらえないのではないか…というこの理由なき不安が、自己肯定感の無さの正体なのではないだろうか。

自己肯定感というのは、小さい頃に「可愛い、可愛い」とちゃんと言葉に表して可愛がられたり、ハグしてもらったり、お喋りに耳を傾けてもらったり(我が家は母:父・私・弟の会話量が20:1くらい、毒母が勝手に喋りすぎ、会話のキャッチボールが成り立っていない)ちょっと出来ない事があっても、愛されていると実感しないと育たないのではないだろうか。学力を着けても、お洒落や整形で外見をレベルアップしたとしても、自己肯定感というのは、そうそう増えるものではなく、小さい頃にどう扱われたかで大方決まってしまうもののような気がする。上記4、5で発言するタイプの人は、子どもの時から沢山お喋りして、ノリの良いリアクションを親から貰えてたのだろうと推測する。人を惹きつける会話というのは「話す内容より話し方」と言われているようだが(最近そんな内容の本が出てなかったっけ?)、堂々とした喋り方というものは、幼少時にたわいもないお喋りにも耳を傾けてもらってついた自信に拠るところが多いように思う。

毒母の子育て

 

教育に金をかけた毒親に私に対する愛が無かったとは思わないが、「私自身が」「子どもとして」愛情を実感できる子育ては全くできていなかった。私は毒母から「りかこちゃんは赤ちゃんの時本当に可愛くって仕方なかったわ」などということは一度たりともきいたことが無い。ギャン泣きして大変だった、とか、子育てが大変だったことは何回も聞かされたけれども。でも、乳幼児って誰でもギャン泣きしたり病気になったりするもんじゃないの?乳児の時よく泣いたにしても、物心ついてからは、大人しい子どもだったから(むしろ運動が嫌いで動かない、本と工作が好きだった…)、あちこち駆け回ったり物を破壊したりするヤンチャ坊主の母親のような苦労はしてないはずだ。私と同世代の友人達は、Facebookやインスタに子どもの写真をUPして、「可愛すぎ」「愛おしくって」「すぐ大きくなっちゃうのが寂しい」などコメントしているのだが、そんな彼女らと毒母を比較してみると、やはりうちの毒母は子どものありのままを受け入れて愛する能力が欠如していて、子どもを自分の思い通りにしたいという欲ばかりが勝っていたのではないかと思う。

不平等感とやりきれなさ

 

すごく小さい頃のことは記憶に無いからいいとして、物心ついてからは、いつも周りの子どもと自分自身の能力の違いと受ける扱いの違いが比例していないことに気づいていた。

お母さんが厳しくって怖いのは、私出来ない子だからかな?と思って、他の子が自分と比べてどれくらいの能力があるかそれとなく同級生に探りをいれてた。(今ピアノはツェルニーの何番弾いてるの?毎日平均何分ピアノ練習しているの?公文やってる?塾とか行ってる?と質問したり、席の近くの同級生のテストの点数をこっそりのぞき見たり)

他の子はどれくらい自由があるのかもそれとなくヒアリングしていた。(どんなアニメ見てるの?漫画とか買ってもらえるの?スーファミやゲームボーイ持ってる?映画とか見に行くの?)

そうして色々ヒアリングしてみた結果…

私は〇〇ちゃんより、難しいピアノの曲を弾いているし、公文も自分の学年より進んでいるのをやっているし、学校のテストの点数だっていつも平均点より良いのに、なぜ、私より色々できないはずの〇〇ちゃんのお母さんの方が優しくって、色々買ってもらえてて、好きなTV番組も見られて、いつも楽しそうで、それに比べて私は何故、毎日こんなに頑張っているのに、欲しいものは何にも買ってもらえなくって、もっともっと頑張るように言われるんだろう?なんで私の人生は毎日辛いんだろう…。いいなぁ、私のお母さんと〇〇ちゃんのお母さん、交換したいなぁ。でもそんな事不可能だし、早く大人になって自由になりたいなぁ。そんな風に思う毎日だった。

すごく頑張っているのに報われない・可愛がられない自分これほど寂しくって、虚しくって、自己肯定感を失わせるものはないだろう。

ここ最近も、友達が愛おしそうに子どもの写真をアップするたびに、「こんな楽しそうな幸せそうな子ども時代、いいなぁ」と思ってしまう。だが私も子育てしたい、という気持ちは全っ然起こらないのだ…(笑)

くすぶり続ける、可愛がられたい気持ち

 

「私を」もっと、もっと、可愛がって欲しい!「私が」可愛がられる対象でありたい!子ども時代に毒親からは与えられなかった、優しいまなざし、楽しい会話、私を安心させてくれるスキンシップを、夫から無限に享受したい。家の中では私がいつも一番でありたい!

姪っ子や友人の子どもと遊ぶのが上手で懐かれている夫を見るたび、もしうちに子どもなんていたら、私が一番ではなくなってしまう…夫を取られてしまう…という恐れ・確信が強まる。家の中でさえもいつも私の近くにいたがってくれて、私の些細な話にも耳を傾けてくれて、毎日ハグもキスも沢山してくれる夫のおかげで、やっと私自身まるごとが大事にされて可愛がられている実感があるが、これが一生続いて欲しいと強く願っているし、一生かかってようやく、私の中の寂しい子どもの心(いわゆるインナーチャイルド?)が癒えていくのだと思う。